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Column コラム

第1章 今、日本で、クラシックを演奏することの意味

「クラシック」と呼ばれる音楽は、西洋の芸術音楽のことを指す。

もう少し具体的に言えば、"ヨーロッパの、キリスト教と共に発展してきた、

多声または和声的な、五線譜に記譜された音楽" で、本来ならば日本には

全く関係のなかった音楽だ。

 

クラシックが日本に入ってきたのは、明治の頃。

文明開化が起こり、「西洋に学べ」「西洋に追いつき追い越せ」という国是の中で

クラシック音楽も推奨された。当時クラシックは全く人々に受け入れられなかった

そうだが、今ではトルコ行進曲やエリーゼのために、ドビュッシーの「月の光」など、

特にクラシックが好きでなくてもいつの間にか耳馴染みになっている曲は結構多い。

現在ではそのくらい、クラシックは日本の文化の中、生活の中に浸透しきっている。

しかし、クラシックのCDを買ったり、コンサートに行ったりするかと言えば、それは

また別の話だ。クラシックのCDの売上はCD売上全体の3%未満だと言うし、定期的に

コンサートに足を運ぶ人なんて、果たして周りに何人いるだろうか。専門的に勉強して

いる人以外で、純粋にクラシックが好きで演奏を聴きに行く人なんて、日本ではかなり

稀なんじゃないだろうかと、最近よく思う。

大学時代ウィーンに滞在したことがあったが、ウィーンでは毎晩、いたるところで演奏会

が行われていた。どこの会場もほぼ満席で、クラシックを聴きに行くことは、そこにいる

人々にとってごく当たり前のことのように感じた。そんな環境に居られたなら、「ここで

クラシックを演奏することの意味」なんて、きっと微塵も考えることはないのだろう。

石造りの教会、日曜日に聴こえる賛美歌、乾いた空気。脈々と続いてきた文化の上に

この場所があり、自分も今まさにその流れの上にいるという感覚が、そこにはあった。

しかし私は、残念ながら、そういった歴史から遠く切り離された日本にいる。

石造りの教会も無い、湿った空気のこの日本で、クラシック音楽とどう向き合って

いったらいいのか。小さな喫茶店やギャラリーで演奏させてもらうようになってから、

よく考えている。

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話は変わるが、以前、日雇い労働者の街と言われる大阪の西成区の立ち飲み屋の奥、

グランドピアノのある小さなスペースで、クラシックを演奏させてもらうことが

何度かあった。

狭くて、暗くて、汚くて、おっちゃん達のくっちゃべる声のする中で響くクラシック。

なんとも奇妙な光景だったと思う。「全然面白くなかった」と言われたりもした。

短めの聴きやすい曲を中心に演奏していたので、言われて、なんやと思って、次の時に

重くてボリュームのあるショパンのスケルツォ1番を、がっつり叩きこんだりもした(笑

そうそう。こんな風に日本で弾くクラシックは、どこか滑稽でちぐはぐなのだ。

だって、日常的にクラシック音楽を聴いているような人はほとんど居ないのだもの。

いや、居ないと言うと語弊があるが、私が関わりのある人達、例えば日雇い労働の

おっちゃんや、お金の無い若者や、施設にいるお年寄りや、そういう人達にとって

クラシックを聴くことは何か意味があるのだろうか、もしも無いとするなら演奏する

意味があるのだろうか?と考えてしまうのだ。

そもそも、日本人の音感と西洋のものは全く違う。日本人の根っこにあるのはやっぱり

四七抜きや二六抜き音階だし、リズムも全然違う。この辺は民族音楽学の小泉文夫氏の

受け売りだが、小さい頃に遊んだ「かごめかごめ」や「なべなべ底抜け」などのわらべ

うたが日本人の自然な歌の原形であり、それを口ずさんでみると私達の歌が西洋の音楽

とは似ても似つかないものであることはすぐわかる。

そう思うと、今まで曲を解説してみたり、同じ曲を違う弾き方で弾き比べして見せたり、

伝えるための工夫を色々してきたけれど、そもそも日本で演奏会をするならクラシック

ではなくて日本の民謡だとか、そういうものを日本の楽器でやった方がよっぽどいいの

じゃないかと思えてくる。幼いころに慣れ親しんだ歌謡曲は、簡単に私達を望郷の思い

へと誘うし、惚れた腫れたの歌詞はいつの時代も変わらず胸に響くものがある。

 

教育されてわかるようになってしまったからといって、なにもわざわざ他国のクラシック

音楽を演奏することはないのではないか。私たちに馴染みのある音楽を差し置いて、

「わからない」人の多いクラシック音楽をあえて演奏する意味は、どこにあるのか。

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いや、しかし。そもそも日本の民謡がクラシックよりも輝きを持って私に迫ってきたのは、

小泉文夫氏がいたからだ。彼の聴く耳があってこそ、私の中で、民謡が輝きを持ち始めた

のであって、そうでなければ聴き飛ばしてしまうものであったかも知れない。

ちょっと違うが似たような話で、生徒の発表会の曲決めの時、同じ曲を弾いて聴かせても

Aさんの前では生き生き弾けて、「これにしよう!」と二人で盛り上がったのに、Bさんの

前ではいまいちよく弾けず、違う曲がいいとなったことがある。これは私の弾き方がどう

というのよりも、(同じ日の、同じ条件下で起こったため)聴く人の感じが演奏する私に

大きく影響していたと思う方が自然だ。聴く人の耳があるかどうかで演奏は変わる。

それは音楽が、演奏する側だけがつくっているものではなく、2人の間に起こるもの

だからだと思われる。

すると、三味線で歌う島唄であっても、ピアノで奏でるクラシックであっても、弾く人と

聴く人の間に生まれることには変わりない。そういう意味で、演奏はコミュニケーション

だと思う。

場は常に唯一無二の場で、始まりの音はいつでもその空間を新鮮に震わせる。即興演奏で

あっても、既存の曲であっても、その時そこに生れ出る音は、紛れもない生ものだ。

どんな曲を演奏するにしても、その、今ここにしかない音空間を大事に演奏したら、

今までとは違う場が出来ていくんじゃないだろうか。

これについては、まだまだ経験が足らない。探究の余地がある。

やってやって、やっぱりクラシックは日本人には合わない、やっぱりクラシックは自分

の歌にはなり得ないと思って、やめる日が来るかもしれない。でも、そこまでは、まだ

やってみたいと思っている。

そんなことで、引き続き、「今、日本で、クラシックを演奏することの意味」は

目下探求中である。今年はたくさん、場を経験したい。

(2016/10/9 更新)

追 記

音楽は、演奏する側だけがつくるものではなく、聴く人と演奏者の間に起こるものだと

いうことを、最後に述べた。ここで少し、聴く側の人達のことを、考えてみたい。

十八世紀のヨーロッパでは、演奏会は貴族の社交場だった。現代のように音楽を聞くこと

のみを目的に演奏会に来る人は珍しく、聴衆は演奏中におしゃべりし、食事をとり、煙草

を吹かすのがごくあたり前だった。

十九世紀に入ると、市民社会が成立し、音楽文化の担い手が貴族からブルジョワへと移行

する。そのため聴衆層が一気に拡がり、演奏会が商業ベースに乗るようになった。

 "真面目な、学識ある聴き方" が生まれたのもこの時代だといえる。演奏中に喋ったり、

食事をしたりすることはとんでもなく、静かに音に耳を傾け、作曲家の言わんとしていた

素晴らしい世界を聴き取ろうとする聴き方が推奨され始める。

しかしその裏には低俗な娯楽音楽とは違う「高級」感を煽ることで、人々を集め商売とする

ための策略があったと思われる。

この "真面目な、学識ある聴き方" は、私達に「作品への理解」を強要する。作品理解と

関係のないものを排除するために、外の音は遮断され、照明は落とされ、日常から隔離

された空間が生まれる。人々は個々人で作品と向き合うように配慮され、音楽を聴くと

いう行為は極めて個人的な体験となり、コンサートは脱社会化、非日常化を遂げる。

 

そして二十世紀。機械技術の発展により、音楽はコンサートホールを飛び出して、個人の

家庭で楽しめるものとなった。もはや人々は好きな音楽をいつでも、どこでも聴くことが

出来る。こうして価値の平板化が起こり、音楽文化はもはや「大衆化」を超えて、様々な

ニーズを持つ分化した聴衆たちの複合的な動きによって形作られることとなった。

同時に、音楽の聴き方も多様化した。そのため、現代の人々は共通の音楽体験というもの

を持つことが難しくなっているように思う。

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さて、そんな中でクラシックの演奏をすること、聴くことの意味はなんだろう。

私が今考えているのは、クラシック作品の演奏を通じて、それぞれの時代や、作曲者が

見ていた世界を体験するような演奏会が出来たら面白いのじゃないか、ということだ。

2016年の11月に、古典、ロマン、近現代それぞれの時代における作品とその聴き方の

変遷を話しつつ、演奏するという試みをした。

結果、普段全くクラシックを聴かない人ともモーツァルトやベートーヴェンの人物像を

共有することができたし、ロマン派の雰囲気を感じてもらえた、と言っていいと思う。

面白かったという多くの声をいただいた。

会場にいる人々の「聴き方・捉え方」を、楽譜の解説や作曲家の話を通して、

演奏する作品が求めている聴き方にチューニングし、場作りをした上で演奏することで

作品のより細かな部分まで伝えることが出来たように思う。

これは結構大きな収穫で、この方向で進んでいけば、今まで演奏だけではスルーされて

いた人達に容易に届くことができるかも知れないし、また日本人であることを否定せずに

西洋のクラシックを楽しみ、その心を理解する場を作ることが出来るかも知れない。

まだ、「かも知れない」なので、これからたくさんの実験が必要だが、

とにかく「今、日本で、クラシックを演奏することの意味」に対しては

ここで、ひとつ答えを掴んだ気がしている。

(2017/2/11 更新)

 

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【参照文献】

スモール・クリストファー (2011)「ミュージッキング ー音楽は"行為"である」

西島千尋 (2010)「クラシック音楽は、なぜ“鑑賞”されるのか―近代日本と西洋芸術の受容」

小泉文夫 (2005)「音楽の根源にあるもの 」

渡辺裕 (1989)「聴衆の誕生 ーポスト・モダン時代の音楽文化」

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