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Column コラム

第4章 「良い演奏」ってなんだろう?

「良い演奏ってなんだろう?」というタイトルで、

2022年に第2回まるネコ堂芸術祭に出展した。

そしてその時の演奏に納得がいかず、

第3回も、引き続き同じ問いに取り組んでいるが、

問いを立てながら舞台を踏み、来てくれた人の反応や声を聞き、

少しわかってきたことがある。

まず、「良い演奏」というのは、誰が決めることだろうか?という点。

今までは、私が演奏中に「良い演奏だ」と思えるなら、聞いている人もきっと

「良い演奏だ」と思うに違いない、と強固に信じていたことがわかってきた。

自分と聞いている人が、無意識に、完全にイコールになっていたと思う。

(普通に考えればそんなことはあるはずがないと思うのだが)

それに気づくと、聞いている人にとっての「良い演奏」をしようと思った時、

演奏者である「私」が、演奏中に、「良い演奏だと思う」かどうかということは、

とりあえずどうでも良いこととして放っておけるようになった。

それから、聞いている人が「良い演奏」かどうかを決めるのだとしたら、

「良い」とか「悪い」とか判断するためには、まずその曲が伝わらなければ

どうにも判断できないんじゃない​だろうか?という点。

これはかなり真に近いと思えたので、演奏者としての私がすべきことは、まずは

曲を理解して、できるだけ正確に、楽譜に忠実に音を届けることなんじゃないか、

と思うようになった。

今まで散々、楽譜に書かれた音をただ出すだけじゃ音楽にはならない、

良い演奏にはならない、と言われてきたし、そう思ってきたわけだけど、

まずは楽譜通りに音を鳴らせるということ、作曲家が意図した通りの音を

できるだけ正確に届けるということこそ大事だろうと思えたことは、

ここまで粘って考えてきてよかったと思った。

思えば、「楽譜通りに弾く」という言葉は、レッスンの中で、

あまり良い言葉として使われてこなかった​と思う。

それは言うなれば、音は合っているけど無味乾燥ですね、という意味の言葉だ。

逆にミスがあっても「こう弾きたい」という意思のある演奏は褒められる。

それが悪い方に染みついてしまって、土台を無視してフワフワした上の方ばかりを

大事に思ってきたような気がする。

 

例えば、シューマンの〇〇、ショパンの〇〇を演奏する時、

聞き手がシューマンやショパンに出会うには、その作品の形を変えずに

まずは提示できる、ということがどれだけ大切か。

そこの土台の大切さを、最近身に染みて感じている。

(2023/3/3 更新)

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