さくらピアノ
Column コラム
第3章 ピアノを「弾く」ってどういうこと?
ピアノを目の前にした時、「どうぞ弾いて下さい」と声をかけられたら
大抵の人は「いやいや、私なんて」と遠慮してしまうのではないだろうか。
鍵盤を押せば音が出るピアノは、あらゆる楽器の中で最も音が出しやすい楽器
なのにも関わらず、その自由さゆえに、何かメロディーらしきものを弾かなければ
ならない、とか、ちゃんとした和音を鳴らさなければならない、と思って萎縮して
しまいがちだ。
これが管楽器や弦楽器だったら、音が出ただけで「おー!」と周りから歓声が
上がったりすることもあるのに、ことピアノになると、触れば音が出ることは
知りつつも、「私は弾けないので」という話になることが多い。
この時の、「弾く」とか「弾けない」という言葉は、何を指しているのだろうか。
「音を出す」こととは明らかに違うそれを、改めて少し考えてみたい。
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ピアノが弾けないので弾けるようになりたい、という方がレッスンに来られたら、
とりあえずやることが3つある。
ひとつめは、音符の「ドレミファソ」が読めるようになること。
ふたつめは、どの鍵盤が何の音か覚えること。
みっつめは、指番号を覚えること。
この3つが出来れば、簡単な曲はすぐに両手で弾けるようになる。
大人なら、15分もあれば皆しっかり両手で1曲弾けるようになる。
「弾けない」と「弾ける」には、たった15分程度の隔たりしか無いのに、
明らかに何かが違う。それは、「こういう音を鳴らしたい」という目的の
有る無し、じゃないだろうか。
目的の音を出せることを「弾ける」と言い、そもそも目的がなかったり、
練習中で目的の音を出せない時に「弾けない」と言うことになっている気がする。
「弾く」という言葉は、そういう用いられ方をしていると思う。
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この前、即興ピアノを弾く東京の友人と実験的なイベントをした。
彼の演奏の実況中継が面白くて、つい笑ってしまったのだが、
それは、「ここを押してみようかな」「おーこういう音ね」
「そしたら次はここにしようかな」「なるほどこんな音か」
「じゃぁ次はこうしてみようかな」…というような感じで
音を鳴らす前に、目的の音が頭の中にあるような演奏ではなく、
鍵盤を押して鳴った音を受け入れていくような、
聴いた音から次の場所を決めていくような、そんな演奏の仕方だった。
「ピアノが弾けるかって言われたら、弾けませんって思う」と
彼が言っていたように、その時の即興は初めに言ったような
ピアノが「弾ける」とされている状態とは違ったものだったと思う。
これはどう説明したらいいだろう。
「弾けちゃった」みたいなこと。
毎回、自分がどんな音を出すのか、弾き出す直前までわからなくて、
弾いている間もどうなるかわからなくて、終わってもなお
「終わっちゃった」という感じのこと。
最初に目的の音が無いので、「よかった」とか「わるかった」とかはなく、
「こうなってしまった」というような世界のこと。
初めに言ったピアノが「弾ける」状態が、自分から意識的に世界を作り出して
いくことだとすれば、「弾けちゃった」状態は、既にある世界に多大に影響され
自分が(演奏が)作られていくこと、だと言えそうだ。
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でも本当は、こんなに世界はわかりやすくない。
クラシックでも「弾けちゃった」と言えるような演奏になる時もあるし、
即興でも意識的に音を使うことはある。
一言でピアノを「弾く」と言っても、多分やっていることは皆違うのではない
だろうかと思う。ピアノを弾く人の数だけ「弾く」がある、と思う。
ジャズとクラシックでも違うし、好きな演奏者を何人か頭に思い浮かべただけ
でも、その弾き方や醸し出す世界がまるで違うことに気づく。
そうそう。だから、この「弾く」が正しい、なんてことはなくて、
私は私の「弾く」を追求していけたらいいのだと思う。
そして、他人の「弾く」について、とやかく言うことはないのだ。
同じ言葉を使っていても、全く違うことをしているのだから。
(2017/6/23 更新)
追 記
また最近になって、「ピアノを弾く」ってどういうことだろう?という問いが
頭を掠め始めている。
これはでも、前に考えていた時とは違い、
「わかりかけてきている」ような感触がある。
この過程は「音楽とは何か?」を考えていた時と似ている。
知識として入れた言葉(前回の場合は「音楽」)を、そういう物質的な"モノ"が
ある訳ではない→自分が思うものがそう(音楽)なのだ、とゼロベースに戻して、
そこから自分にとっての意味を見つけていくという道のりだった。
それを鑑みるとおそらく今回も同じようなことが起こっている気がする。
ものすごく面倒くさいが、借り物の言葉を自分の中で咀嚼して、
自分のものとする必要があるらしい。
そうしないと私はやっていけないみたいだ。
で、今回は「ピアノを弾く」ということなのだが、
すごく当たり前のことを言うけれど、ピアノを弾くのは指である。
指はこの体の末端で、要するにピアノを弾くのは体である。
いくら「ピアノを弾くぞ」と念じたってダメで、
歩いてピアノの前に行き、椅子に座り、鍵盤に手を乗せなければ
弾けないのである。当たり前だけど、まぁ、そうだ。
じゃぁ体が動けば弾いたことになるのか。
鍵盤に手を置く。そのまま手を下に押す。ジャーンと音が出る。
これは「弾いた」という感じじゃない。ただ押しただけだ。
「ピアノを弾く」というのは、どうもこのふたつの間にあるらしい。
必要なのはピアノを弾く体と、その体を動かしている想い(なんて言っていいか
わからないが)みたいなもの。両方必要なようだ。
「指だけ動いたってしょうがない」というのはよく聞くが、
指が動かなければ弾けないというのも真実で、
この体と想いの一致感、みたいなものが重要なんじゃないだろうかと思えてきた。
そう思うと、大阪に来てから首を突っ込んでいる心理の領域に被るところがある。
一致しているということ。欲しい音を、自由に体が動いて、鳴らせてくれる感じ。
自由自在に海の中を泳いでるような感覚。
この感じが私にとっての「ピアノを弾く」なのかも知れない。
(2019/11/3 更新)